西部コース
錦城館
毎月1日と15日に村の官史と士人を集めて、錦城館の中央に王を象徴する殿牌(チョンペ)・闕牌(クォルペ)とよばれる木牌を祀り、当時の首都漢陽にあった王宮の方角に向かって礼を尽くす儀式“望闕礼”が行われた。望闕礼は、元来、主に伝統祭日や王・王妃の誕生日に行われたが、羅州では毎月2回ずつ定期的に行われたという点から、錦城館は地方宮廷としての意義がとても大きかったと言える。錦城館は、地方では稀にみる大規模の立派な建物である。また、抗日精神という厳威さも兼ね備えている。
正綏楼
“正綏楼”とは、その名の通り、官庁に出入りする人々に正しい心構えを持たせ、心を安らかに保つよう呼びかける、という意味を持つ。正綏楼は、1603年(宣祖36年)に羅州牧使に赴任した兎伏竜(ウ・ポクリョン)が建立したと「邑誌」に記録されている。正綏楼には、ソウルの「申聞鼓(民衆の直訴用の鼓)」と同じような鼓があり、羅州の人々はこの鼓を使って牧史に直訴した。
牧史内衙「琴鶴軒」
“内衙”とは、朝鮮時代の地方官衙(役所)の敷地内にあった住居用の建物である。牧史といわれる役人が政務を行った所を「東軒(外東軒)」、内衙を「内東軒」とも呼んだ。琴鶴軒は、羅州牧使が居住した邸宅、羅州牧使の内東軒である。また、羅州官衙内にある建物の中で、実際に市民が利用できる施設でもある。KBSバラエティ番組「1泊2日」の撮影が行われたことで有名になり、現在は官衙宿泊体験ができる。
SDA(セブンスデー・アドベンチスト)教会-イエス再臨教会
イエス再臨教会は、羅州最古の教会である。1914年、嶺南地方で宣教活動をしていたイ・グンオク、キム・ソギョンの2人の伝道師が、湖南派遣後、最初に福音した所がここ羅州である。日本統治時代に羅州に建てられた最初の教会で、左隣にある建物は1961年に建てられたものである。それぞれ異なる建築様式で建てられており、歳月を共にした2つの教会が羅州の市民に福音を伝播している。
崔溥(チェ・ブ)と梁(ヤン)氏家屋跡
現在、梨花アパートがある場所は、昔、朝鮮時代の羅州を代表する人物で、「漂海録」の著者として有名な錦南崔溥(チェ・ブ)が暮らしていた所である。その後、この地にはヤン・ドンホという富豪が暮らしたが、第2次世界大戦終戦後、餅を作っている時に火事になり全焼した。梨花アパートの西側に残っている石垣から、当時の栄華をはかり知ることができる。
ボリマダン(麦広場)通り
コースの中間にパッと開けた通りがあり、この広い通りで麦打ちや麦干しが行われたことから、「ボリマダン(麦広場)通り」と呼ばれている。詩人孫光殷(ソン・クァンウン)の「麦打ち」という詩を思い浮かべると、より鮮明に風景をイメージすることができる。
西城壁通り
羅州邑城は、大部分の邑城と同じように背山臨水の地に位置している。前方に“栄山江”、後方に羅州牧の鎮山である“錦城山”が聳えている。城壁は、北壁及び南東壁の一部区間だけ丘陵が利用され、その殆どが平地を横切るように積まれた平城である。
西城門
山の麓から 錦城山を眺めるように建っている門が“西城門”で、本来の名前は「映錦門」である。城は、外敵から自分たちを守るのが主な目的だが 防備が弱い城門では特に熾烈な戦闘が繰り広げられ、この西城門でもまた、熾烈で悲惨な官軍と東学軍の戦闘が行われた。
羅州郷校
羅州郷校は、 錦城山の壮元峰の麓にある。1986年8月、高麗の成宗王が12の牧に郷校を設置するよう命じ、羅州郷校もこの時に建立されたものと思われる。郷校の入り口には、“羅州郷校”と記された石碑と、“大小人員皆河馬”と記された石碑が並べられている。
司馬斎通り
司馬斎は、小科の最初の試験である“司馬試”に合格した生員や進士たちが一同に学問を錬磨し、後進の育成に努めた所で、郷校と書院の中間的な位置にあたる。司馬斎では、長期休暇に入った大学生を対象に、漢文古典講読プログラムが運営されることもあり、小学、通鑑、四書、三経の順に体系的に古典講読が行われる。
頤老堂と松
元来この地は、六房吏属の長である戸長の事務室だった所で、舟師庁、戸長庁とも呼ばれた。現在は、羅州頤老会が買い取り、“頤老堂”という高齢者用の集会所が設けられている。頤老堂で一番目を引くものは、やはり松の木である。まるで龍が昇天するかのような形をしていることから、“龍松”とも呼ばれている。この松は海松で、邑城では滅多に見ることができない木である。
明堂通り
明堂通りは、羅州邑城内において風水上良いとされる場所で、この地には昔から村が形成され、郷史といわれる役人たちが暮らしていた。以前は、錦城山神を祭る“祢祖堂”という祠堂があり、1970年代後半に無くなったと伝えられているが、羅州丁氏一族は最後まで錦城山神の祭祀を執り行ったそうである。
社倉通り
“社倉”とは、官庁の穀物を貯蔵した倉庫である。錦城館の裏道が、昔、穀物倉庫があった社倉通りである。現在、社倉は残っていないが、社倉通りの目印でもあるケヤキの木は樹齢約400年を誇り、しっかりとこの地を見守り続けている。地域の住民たちは、このケヤキのことを“堂山の木(タンサンナム)”とも呼ぶために、この通りは、「堂山通り」とも言われる。
駟馬橋(碑)と郷庁跡
“郷庁”とは、朝鮮時代の地方の守令を補佐する地方自治機関を指す。守令が司る行政を、土豪の立場で諮問、支援する諮問機関で、地域の風俗を教化し、現在の地方公務員にあたる郷史たちの不正を取り締まる是正機関としての役割も担っていた。文禄の役以後、その機能は縮小し、郷庁と呼ばれるようになった。
恋の細道
恋の細道は、錦城館の東の塀に沿って続く細い路地を指す。道が狭くてすれ違いざまに肩がぶつかるので、“恋が芽生えやすい路地”ということから由来する名前である。最近は、付き合いたてのカップルが多く訪れるスポットである。
南坡古宅
南坡古宅は、密陽朴氏の邸宅で、重要民俗文化財第263号に指定されている。南坡古宅は、20世紀初めから中盤にかけて建てられたために、近代式韓屋の建築様式の変化がそのまま見られるという点で文化的価値が高く、また、全羅道の上流階級の典型的な邸宅ともいえる。