東部コース
(旧)錦南金融組合
錦南金融組合は、造りは和風平屋建てだが、外壁は紋章や紋様が施された西洋風になっており、1930年代以前に建てられたものと思われる。金融機関は、主に郡庁前や本町(町の中央部)、市場周辺、主要道路の交差点などにある。現在残っている錦南金融組合と羅州金融組合の建物は赤レンガ造りになっており、他の商店や一般家屋などの木造住宅と対比される。
(旧)羅州蚕糸
1910年代に千賀という日本人によって建立されたもので、羅州では唯一の製糸工場であった。羅州の養蚕業は、全羅南道最大規模で戦後も稼働され続けたが、1980年代の化学繊維の発達とともに衰退し、工場は閉鎖された。2014年には、政府による廃産業施設文化支援政策によって、文化芸術・創作発展の場“羅飛センター(羅州アート・ビジョンセンター)”として生まれ変わった。センター名には、“羅州の飛翔”という思いが込められている。
錦城橋
1912年、光州と木浦を繋ぐ中心地点に、邑城の東部から南部にかけて一等道路を設け橋が架けられた。1982年頃までその原型は維持されたが、後に現在の形態(既存の錦城橋をそのまま残し、その上に拡張)になった。一説では、朝鮮時代からあった石橋に、日本が現代式に上積みしたことから、錦城橋と呼ばれるようになったと言われている。
(旧)羅州警察署
羅州警察署は、日本統治時代に設けられた植民統治を象徴する建築物である。当時、日本政府は意図的に、木浦や栄山浦方面から羅州に入る唯一のコース、かつ通行量が最も多かった場所に、威圧的な警察署を設けたものと思われる。羅州警察署は、羅州で民族解放運動に携わった人々の血と涙が深く染み込んだ場所である。
518民衆抗争と武器庫y
1980年5月、光州民主化運動が起きた。羅州市民は、5月19日の戒厳軍による光州市民虐殺の知らせを受けた後、組織的に光州民主化運動に参加した。羅州市民は、市民軍を支援するために羅州警察署の武器庫と栄江派出所、予備軍大隊本部の武器庫を奪取して武装し、戒厳軍に対抗した。これら羅州市民の行動とデモ参加への訴えは、全羅南道西南部地域にデモが拡散する契機にもなった。
全羅右営跡
1657年(孝宗8年)、羅州巨鎮が全羅右営に改編され、5牧2郡5県の兵馬(陸軍)の指揮権を持つ将軍、右営将(正三品)が別途配置された。右営将は、兵馬管轄地域10郡県の討捕使(現在の検察支庁長)を兼任し、絶大な権力を握っていた。右営陣跡には現在何も残っておらず、最近まで残っていた一部の礎石などは、天主教会羅州聖堂に移され、殉教地記念遺物として使用されている。
(旧)羅州駅
駅としての機能を果たした旧羅州駅は、文化歴史の空間として再誕生した。ここ旧羅州駅は、“光州学生独立運動”の発端ともなった“羅州テンギモリ事件”が起こった場所でもある。韓国3大抗日民族運動の一つである“光州学生独立運動”の発祥地として歴史的意義を保存し、伝播する役割を担っている。毎年10月末には、羅州学生独立運動を記念して音楽会などのイベントが開催される。羅州テンギモリ事件…日本人男子中学生が、韓国人女学生の髪の毛を引っぱっり愚弄した事件。これが発端で、韓国人学生と日本人学生の衝突が起きた。
羅州5日市場
羅州は市場の発祥地で、朝鮮時代から5日市場が立っていた。羅州が市場の発祥地となった背景には、農業生産力の増大がある。また、社会分業の拡大や生産物交換の必要性も徐々に増大し、このような要求を実現できる最適の地は、四通八達で栄山江の船路であった羅州であった。5日市場は、主に常設施設がない場所に立つが、羅州では5日市場と常設市場が共に立つため、安定且つ力動感ある活力が共に享受できた。
北望門
羅州邑城には、東西南北に4つの城門が置かれていた。東の“東漸門”、西の“西城門”、南の“南顧門”、北の“北望門”である。羅州邑城の北望門は、東漸門や南顧門とは異なる単層門で、主に北部住民が羅州邑城に入城する時に利用された。これまで、南門、東門、西門の順に復元されており、北門もまた、復元に向けた発掘調査が行われている。