三国時代

馬韓の54ヶ国中の不弥国であったと推定されており、百済時代には発羅ㆍ通義と呼ばれた。

統一新羅

錦城郡(別名は錦山)と呼ばれたが、903年(孝恭王7)に羅州と改称された。後三国時代には後百済の領地だった

高麗時代

983年(成宗2)に全国12牧の中のひとつとして羅州牧が設置され、995년(成宗14)には兵馬節度使を置いて軍隊の称号を鎮海軍とした。1011年(顕宗2)の契丹の侵入でしばらく非難王都となり(期間1011年1月13日~1月31日まで)、 1018年に全国の8牧中のひとつの羅州牧となり1895年まで続いた。

朝鮮時代

世祖2年(1457年)は兵営の下部組織である巨鎭を設置し、鎮将の兵馬使は牧使が兼任した。孝宗8年(1657年)は羅州巨鎭を全羅右営に改組することで右営将を置いて2郡8県の軍備を掌握したところ管轄区域が拡大された。

高宗32年(1895年)5月の甲午更張の後、近代的な地方行政制度の改革に伴い牧使と右営将をなくし、羅州郡守を置き羅州観察府を設置した。

1900年代初期

  • 1914年3月1日に行政区域の変更で南平郡の一円と咸平郡の赤良、章本、餘隍と光山郡 所持面松錄里、松下里を編入(43面)。
  • 1914年3月1日の部令第111号(1913.12.29公布)で、府郡面の廃合により19面となる。
  • 1929年4月に羅州、羅新の両面を併合して羅州面となる(18面)
  • 1931年11月1日に部令第132号(1931.10.20公布)で羅州面が羅州邑に昇格し1邑17面となる。
  • 1937年7月1日に部令第80号(1937.6.28公布)で、栄山面が栄山浦邑に昇格し2邑16面となる。
  • 8ㆍ15解放後、1949年8月14日に大統領令第161号(1949.8.13公布)で、三道面、平洞面、本良面が光山郡に編入され2邑13面となる。
  • 1971年5月19日の羅州郡条例第385号(1971.5.19公布)で、茶道面のタソ出張所と鳳凰面の

1980年代

  • 1981年7月1日に法律第3425号(1981. 4. 13. 公布)で、羅州邑ㆍ栄山浦邑が錦城市に 昇格し羅州郡から分離(市:11洞、郡:13面2出張所)。
  • 1983年2月15日に大統領令第11027号(1983.1.10公布)で、羅州郡文平面清井里ㆍ雲峰里ㆍ新光里及び玉堂里の一部が多侍面に編入。
  • 1986年1月1日に法律第3978号(1985.12.28公布)で、錦城市を羅州市に名称変更。

1990年代

  • 1995年1月1日に法律第4774号(1994.8.3公布)で、羅州市と羅州郡を統合して13面11洞2 出張所となる。
  • 1995年3月1日に法律第4789号(1994.12.20公布)で、南平面が南平邑に昇格し1邑12面11洞2出張所となる。
  • 1996年2月10日に羅州市条例第169号(1996.2.10公布)で、羅州市三都洞の一部を金川面に編入。
  • 1996年6月24日に羅州市条例第184号(1996.6.24公布)で、潘南面下村里を星溪里に、多侍面新楓里を会津里に名称変更。
  • 1998年10月1日に羅州市条例第314号(1998. 9. 14. 公布)で鄕校洞ㆍ錦南洞ㆍ南山洞を 錦南洞に、城北洞ㆍ松峴洞を城北洞に、栄山洞ㆍ富徳洞を栄山洞に、二倉洞ㆍカヤ洞を二倉洞に統廃合。羅州市条例第313号(1998. 9. 14. 公布)で茶道面のタソ出張所、鳳凰面の南部  出張所を廃止(1邑12面6洞)   
  • 1999年9月28日に羅州市条例第360号(1999.9.28公布)で、羅州市山浦面徳禮里の一部を南平邑平山里に、山浦面等樹里の一部を南平邑校院里に、旺谷面新院里の一部を細枝面竹洞里に各々編入。

2000年代

  • 2001年5月2日に羅州市条例第424号(2001. 5. 2. 公布)で老安面鶴山里の5里を7里に分区。
  • 2003年7月1日に羅州市規則第310号(2003. 7. 1.公布)で城北洞22統98班を23統108班に、 二倉洞22統74班を22統79班に調整 
  • 2005年5月20日に羅州市条例第574号(2005. 5. 20. 公布)で南平邑校院里3区を3区と4区 に分区
  • 2007年3月7日に羅州市規則第375号(2007. 3. 7.公布)で城北洞10統3班を城北洞24統、 25統に統を新設
  • 2008年11月3日に羅州市条例第745号(2008. 11. 3. 公布)で細枝面內亭里1区を1区と3区に 山浦面等樹里1区を1区と2区に分区
  • 2009年11月20日に羅州市規則第443号(2009. 11. 20.公布)で栄山洞23統を栄山洞23統、 24統に分統